自発性・自由意志などについて自発性・自由意志などについて1~5 イメージがでてきたままに、ラフスケッチ まず、初めに; 人たちが人たちの様子などや自分の心などを観察してきて、ある範疇にはいるケースを自発性がある、とか、自由意志によっている、などと表現した、そういうばあいの「自発性」や「自由意志」は否定できないといえる、 心脳工学では、人間の心に自由意志があるとして(これは仮定というよりも、あるとする、ということ)その自由意志によって心の中に、ぽっと、ある決断が生まれたとしたら、その機構はどうなっているのか、追求することができる。 その検証も実験によってなす、という前提で。 たぶん、現実として、ほんとに、そういったものがぽっと現れる、と推測されるが、そのメカニズムは絶対に解明できないだろう。 たとえば、電子が電荷をもつメカニズムが解明されたとしても、その解説の基礎となる存在の解明は絶対にできないだろう、などといったふうに、もっとも基本となる存在の解明は絶対にできない、ということが証明される、のではないか、 で、絶対に解明できないけれども、自由意志はある、とするのか、ないとするのか、 解明できないが、それは決定論的に決定しているのか、 (決定している=自由意志はない、なのか) 決定していないのか、 決定していない=記述できない=自由意志がある、なのか、 確率的に記述できるのか、 確率的にも記述できないのか、 記述できない=自由意志がある、なのか、 確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,01の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、 それは記述できない、という立場と違わないと、 確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,5の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、 そういったばあい、将来の言動を現実どおりに記述することと、 そういったことは記述できないということとの違いとして、 (ここは表現できない) すべてを見通せる存在があると仮定して、その存在に、それを見通すことができるのか、 見通すことはできないのか、 自由について、 ブラウン運動は自由な運動ではない、と定義すると、この世界に自由なものはなくなるのではないか、と考えてみる、 で、ブラウン運動は自由な運動である、と定義してみる、 そのばあいの自由とはランダム、 人間も、そういったランダム的な自由をもっている、と考えてみる、 たとえば、道を歩くとき、まっすぐに歩くわけではない、その歩きの揺らぎのようなものは、ランダムによっている、と考えてみる、 そこにランダム以外の在り方があるかどうか、 なにか、バランスをとる、といった論理も参加している可能性も考えられる、 自由について 人間の自由について、 なにものなかも規制・制限を受けない、 やりたいとおりにやれる、 そういった環境・状況、 そういった環境は実際にはありえない、 仮りにそういった環境を設定したとしても、人間たちやその他との間にさまざまなぶつかり合いが始まり、たちまち自分も他者も傷いた上に、自由は大きく制限されるようになり、自由でなくなる、 そもそも、人間たちは玉突き台の上の玉たちであり(質の科学でのたとえ)、そういうことになる、 よって、適切な規制・制限をもたせることが、最大の自由をもたらすことになる(全人類の自由の総量について)、 そこに、規則、法律、 さらに、倫理、道徳、 その中で、自由意志を働かせて、言動する、 自由意志も質時間回帰則に従わされる、 しかし、その質時間は自分の自由意志で積み上げたものであるし、質時間回帰則も自分のものであるので、それは自由意志を否定しない、 知性が関わると、そのランダムな自由はどうなるか、 ランダムに自由意志で統制を与える、 自由意志があるなら、その統制(とくに自分にかかわることの)は自由意志からきたものであって、自由の圏内にあるとできる、 その自由意志を心脳工学的に扱うと、既述のように、 人間の存在自体、自分の自由意志で生まれてきたものではない、 人間の存在・ありようはすべて与えられたものだ、 よって、人間に自由意志はない、とするばあい、 いや、最初だけはそうだが、自由意志によって努力すれば、大きく変えられるから、そこに、 初めから、知性と意識というものが存在していて、その意識の自由意志で、人間は生まれてきた、そういった可能性は、 宗教学・神学的には、宇宙・世界を創造した存在が、人間に自由意志を与えた、とすれば、一発で、 物理学的には、確率的に 定義の問題 自由意志 自由意志というのは、この世界・宇宙の根本法則のもとに、自分の心を自分で運営していくこと、それしかないだろう、と考えてみる、 それが自由意志なのである、と考えてみる、 人間は自分でこの世界に自分を産み出したのではないし、自分のすべてはこの世界・宇宙から与えられたものであるし、 さらに、 この世界・宇宙は、もっとも根本のところで、なんらかの法則に従っている、と考えてみる、 誰も・何も・どんな存在も、その法則からは逃れられない、と考えてみる、 そのことを捉えて、自由意志はない、とすることは、この世界に「自由意志」という表現・概念はない、ということに等しい、と考えてみる、 つまり、「自由意志なんてない」と主張する人は、「自由意志」という表現・「自由意志なんてない」という表現を用いてはならない、ということになる、と考えてみる、(爆笑)、 よって、「自由意志はある」という人だけが、「自由意志」について論じることができるのであり、論じた結果の結論も「自由意志はある」になる、と考えてみる、(爆笑)、 つまり、自由意志はみごとに存在するのである、という結論になる、と考えてみる、(爆笑) ここで、ここの初めの、 「それが自由意志なのである、と考えてみる」 がでてきたわけである、(爆笑) (ここの後半は爆笑論理による展開。爆笑と記しているものの、悪くないんじゃないだろうか? こういう哲学も面白い。で、ここを批判したい方は、批判せずに、自分の論を考えてください) 別な展開 自分の存在は自分が産み出したのではないことをもって、自由意志はないとする人は、自由意志について論じる資格はない、 自分の存在は自分のものである(人間は人との間にあって初めて人間になる、とか、人とのかかわりあいを考えるとか、ギブアンドテイクが必要だとか、人のことを考え人のためになることもなせ、とか、そういった次元のことは除く)、ということを否定する人は、自由意志について論じる資格はない、 自由意志は、自分の潜在心(潜在意識)が発動させる、 自分の肉体・脳・潜在心の器を構成している素材も自分(のもの)なのである(それを否定するする人は自由意志について論じる資格はない)、 その潜在心の器はこの世界・宇宙の根本法則に従っているが、その根本法則は自分の潜在心の器内にあるので、その根本法則も自分のものであるので(それを否定するする人は自由意志について論じる資格はない)、自由意志は存在する、 人間は自由意志によって、道具を用いずに鳥のように空を飛べないので、自由意志がない、という人は、自由意志について論じる資格はない、 前に述べた根本法則の下に、さらに自由意志が従う法則があっても、その法則も自分のものであるから(それを否定するする人は自由意志について論じる資格はない)、自由意志は存在する、 という展開も、 (批判したい方は、自分の論を考えてください。批判は超簡単) 過去に書いたもの 私の論を理解するには、工学的ないくらかの素養、科学的ないくらかの素養、数学のいくらかの素養、文学のいくらかの素養、ある程度の国語力、コンピュータの中心概念の理解、発明をたくさんして明細書を書くこと、思考実験に熟達すること、などが必須であるが、哲学的素養は要らない。 自発性、自由意志、その他、について 自発性、自由意志、といった表現は、人間についてであれば、人間の(複数の)そう感じられる状況を見て、でてきたものである。 それを自発性とか自由意志と呼ぶのであって、そんな自発性や自由意志はないと否定することはできない。 否定したい人はもちろん否定していいが、その説明が多くの人を説得するものでなければ、一般性はない、といえる。 で、もっと詳細に考えて、自発性や自由意志があるかないか論じる、という立場に立つのであれば、なにに拠ってそれを考えるのかはっきりさせなくてはならない。 そのためにはまず、定義と用語をはっきりさせることが必要である。 さらになぜ、そういった定義と用語を導き出したのかできるだけ明らかにする。 その上で、その立場で、自発性や自由意志があるかないか論じる、ということになる。 それ以外のやり方での議論では、なんらかの発想訓練と国語力の鍛錬になるだけだろう。 それとは別に、 哲学風や科学風を装って、国語力の鍛錬の議論をしても、心脳問題の研究は進まないだろう。 ごく稀にすごいアイディアが生まれることはあるかもしれないが。 と、まあ考えてみましたが、考えただけであって断定するものではありません。 もっと詳細に考えて、自発性や自由意志があるかないか論じる、という立場に立つのであれば、なにに拠ってそれを考えるのかはっきりさせなくてはならない。 そのためにはまず、定義と用語をはっきりさせることが必要である。 さらになぜ、そういった定義と用語を導き出したのかできるだけ明らかにする。 その上で、その立場で、自発性や自由意志があるかないか論じる、ということになる。 そこを心脳工学の立場で詳しくいうと; 心脳のモデルとそのシステム明細を現実どおりに明らかにし、そこから、自発性や自由意志という内容にあてはまる部分を抽出し、それを、自発性とか自由意志と名づけ、その上でその機構を解明する、または論じる、ということである。 それ以外の立場でもいろいろ可能でしょう。 私は今、心脳工学のモデルとそのシステム詳細にも挑戦しているんですが、その中で、自由意志のあるモデルと、自由意志のないモデル、の両方の設計(もちろん、要検証)(自由意志があるのかないのか、その問題は横においておいて)もやっています。 それらの検証のための実験方法も追求しています。 前者は、平たい言葉でいうと、心の中になんの脈絡もなく突然ぽっと、あのDVDを観よう、という考えが現れたとしたら(なぜそう思ったのか皆目検討がつかないとする)、そこのメカニズムはどうなっているのだろう、ということに代表される課題も抱えたもの、ということです。 用紙にびっしりと書き込みましたが、時間もないし、投稿するとすれば先のことになります(運命づくりのパラドックス)。 前者は、平たい言葉でいうと、心の中になんの脈絡もなく突然ぽっと、あのDVDを観よう、という考えが現れたとしたら(なぜそう思ったのか皆目検討がつかないとする)、そこのメカニズムはどうなっているのだろう、ということに代表される課題も抱えたもの、ということです。 ここの表現はまずいですが、そのままにしておきます。 あまりにややこしくなりそうなので、再追記しておきます。 自由意志によって決断すべき事項があるとして、その出発点は何によって与えられたか、とか、決断に至るまでのプロセスはどうなっているのか、とか、決断時の状況はどうなっているのか、とか、それを自由意志と定義するのか、とか、ややこしくなるので、一番簡単な工学的モデルとして、次のようなものを考えています。 自由意志をもった潜在心の器(=潜在意識のハードウェア)を仮定し、そこに、それがもつ自由意志によって、ある心的内容(決断させる心的内容)が生じたら、そこのメカニズムはどうなっているのか、ということを追求する、そういったモデル。 それらすべて要検証。 時間がないしまだまだ未完成なので、その解説は先の先のことでしょう。 (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。 このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。 それらの無断利用を禁じます。 Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. ジャンル別一覧
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